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Re: 絵に似ていることについて


Morris Louis, Spawn, 1960



Tadashi Kawamata, Venice Biennale (Japan),1982



Willem de Kooning, Untitled, 1979


モリスのフェルト作品を「絵と似ている」ことと併せて考えたとき、思い出したのがモーリス・ルイスです(名前が似ているからではありません笑)。
モリスとルイスが似ているかもと思ったのは、重力を扱っているからです。ルイスの制作方法はよくわかっていないらしいのですが、流されたということは確かなようで、「流される」とは、あるポイントから別のポイントに向けて、絵具が画面に染み付きながら移動することです。それは水と同様に上から下へという揺るぎない方向を持ちます。
一方、モリスのフェルト作品は、絵画が架けられる場所=壁面=垂直性と、重力の関係で考えることができるのではないでしょうか。
作品(群)はフェルトのあるポイントを壁に留めることで、壁と素材(フェルト)が重力との相関的な関係にあることを可視化します。たわみを持ち、捻れ、めくれ、垂れ下がり、張り詰める。こうした様相の変奏が、そのまま作品のヴァリエーションとして現れる。
ポストされたフェルト作品以外の作品が絵画に見えないのは、上記の関係がフェルトの物質性によって前景化されているからではないかと思うのですが、どうでしょうか。
逆を言えば、ポストされた作品は、フェルトの物質性が後退して、なにかイリュージョンとでも呼べるそうなものを作り出しつつあるように見えなくもない。
重力の話にもどすと、ルイスはメディアが絵画であることから、垂直性を撹乱しようと試み、モリスは彫刻であることから、重力が差し出す多様な性質と戯れてみせる。
双方にはメディア的な命題から要請される根本的な違いがあるのですが、垂直性と重力を問題としていることは確かだと思います。
ヴィアラより高松のほうが絵画的であるのは、このことによって説明できるのではないでしょうか。ヴィアラのそれは重力に晒されている。つまり、布に近いものとして作品は指向されている。重力を撹乱することによって、ベクトルを打ち消そうとするのではなく、それはあからさまに網としてそこに垂れ下がっている。私たちは壁に架けられた網を前にして、そのしなやかに歪む矩形のパタンを読み取ることによって、透明な重力の存在を想起します。
高松の場合、重力は水平に適用されますから、一定の方向を持たず、網は部分によって異なる現れを見せます。このとき前景化するのは重力ではなく、網の様態であるのではないか。そこではむしろ平面性が強調されているように思えるのです。


さて、そうした重力との相関性を持つモリスのフェルト作品ですが、もうひとつ、川俣さんの作品を参照してみます(もうすこし分かりやすい画像があればよかったのですが)。
プロジェクトの形式性やコンセプトが強調されて、何故かあまり話題になることがないように思うのですが(国内だけ?)、川俣さんの作品はディテイルが非常に特徴的です。ポストしたヴェニスの作品のような比較的初期の作品では前景化して、最近の作品では後退しているように見えますが、木材の組み方がランダムに見えるというか、流れをもっているように見えるのです。そのディテイルを前にすると、変な言い方ですが、木材に意志があり自らの意志で構築物を作り出しているようにすら見えます。
このことを絵画に引き寄せて考えてみると、ストロークに喩えてみることができそうです。何かを描くとき、私たちは絵画を描こうとするのであって、図面を描くわけではありませんから、モチーフが持つ構造をきれいにトレースして描こうとはしません。ビルの壁面にグリッド状にタイルが敷き詰められていたとしても、そのグリッドを正確に描きうつすことはない(もちろんケースにはよりますが)。そうではなくて、そのビルの状態が相対的にどのような見えのなかにあるのかを描きうつすはずです。このとき、ストロークはモチーフがグリッドようなものだとしても、必ずしもグリッド状に操作されるわけではない。むしろそのグリッドを無視するような、様々な方向のストロークがあらわれるはずです。川俣さんの作品には、なんというか、ストロークを単位化して空間に絵を描いているような、そういう非常に絵画的なところがあるように思うのです。
ポストされたモリスのフェルト作品も、こうした絵画のアナロジーがあらわれているのではないかと思いました。作品は他のヴァリエーションの例に漏れず、方法論的には同様ですが、特徴的なのは奥行きらしきものが作られていることです。言い方をもっと即物的にすれば、それは重なりということができます。この重なりが、重力との関係のなかで複雑な見え方を作り出している。また、用いられているフェルトのカット(?)がランダムに見えるのもその複雑さに貢献していると思います。総じて、点と面と線がベクトルを持って奥行きと量を作っているように見えるのです。それは実際には二次元的な点でも線でも面でもないのですが、それらに相同するようなあらわれを作り出している。それは確かに絵画的だと思います。そこには何かデ・クーニング的なものがあるような気さえします。ある物質がある対象を再現する、その手前で動き続けているような感覚。透明なイリュージョン。


Tさんの件、気になるなあ。今度聞かせて下さい。

絵に似ていることについて

絵画的なネットとは対局にあるのかもしれないけれど、形はネット。これは絵には見えない。

Mowing-Devil / rubber tube, 篠崎栄介, 2010


反対に形状としてのネットとは離れるけど、これは絵に見える、といったら言い過ぎだろうか。上との比較で言わなくとも、確実に絵画的命題を引き継いでいるようには思える。説明はできないんですが...。しかもモリスのフェルト使った作品で絵に見えるのは、なぜかこれだけな気がする。他のもうちょっと「整っている」やつとかは絵に見えない。なぜだろうか。

Untitled (version 1 in 19 parts), Robert Morris, 1968


たぶん形状の「複雑さ」が関与してる(?)。前回のポストで挙げた2点でも、ヴィアラより高松の方が絵画に近い気がする。なんとなくだけれども。

ネット/filet

ずいぶん置き去り状態ですが...、唐突に更新してみたいと思います。

画像は、絵画的命題を下敷きとしたふたつの網の現れ。ネットの形した作品って他にどんなのがあるだろうか...?

左: 高松次郎《ネットの弛み》1969 / 右: Claude Viallat《filet》1970

ピクセルと粒子とマチエール

はいどうもKKです。
久しぶりにこちらに書いてみます。
あんまり下準備もなく、結構なアドリブですが…。

SIGMA DP2sNIKON NEW FM2、BRONICA SQ-Ai、PENTAX67、iPod Touch などデジタル/アナログの機材を使ってぽつぽつ写真を撮っています。
そうして撮られた写真を見直していると、あることに気が付きました。それは、明らかに機材にアジャストしている意識というものがある、ということです。

デジタル/アナログは優劣の問題ではなく、端的に差異の問題であるというのが、いまのところの僕の理解です。つまり、それは同じ評価軸のなかで良い/悪いという問題ではなく、別の評価軸を持つものだ、ということですね。
何故なら、先述のように機材にアジャストしている意識というものが確かにあって、それは結果的に撮影された画像に影響してきます。ここのところを言語化するのは結構難しいので、ひとまず措いて、まぁちょっと撮り方が違うぞと。
ではどう違うのか。具体的に画像を見れば確かに違うのだけど、すこし面白いかなと思ったのは、アウトプットを想定したときに、遡行的にそのためのプロセスが撮影の段階にまで及んできているということです。アナログの場合、薬品を混ぜて、自現機を稼働させて、印画紙に露光して…とかっていうプロセスがあって、そこにあまり自由度はない。自由度を作ることには可能性を感じるけれど。
デジタルの場合は撮った後は結構自由に感じられる。
この差は個人的にはなかなか興味深くて、アナログで埃の除去に執心したり、僅かなトリミングを修正したりとかっていう、比較的微細な事柄にあれほど時間をかけるのに、デジタルではそういうことがない。むしろ、どうやって画像を粗くしていくかとか、著しい劣化を引き受けてでもある部分を拡大しちゃったりだとかっていうことにあまり抵抗がないわけです。これはアナログではなかなかできない。プリント段階の操作性の違いということもあるけど、そもそもネガにあたるものの質に、それは起因しているように思われます。

こうして生成された画像に、最近それほど差を感じなくなってきたということがあります。矛盾するようだけど、両者の違いを引き受けた上でのイメージである、という理解を持ったとき、逆にそれらは等し並みにイメージである、と捉えることが出来るようになったというか。

このことを敷衍すると油彩もこうした考え方のなかに並べられるように思うんですね。
こないだ少し話したけれど、
(あまりにアナクロであることは承知の上で)写真と絵画を考えたときに、機械の解像力というのは確かに驚異的で、現実を写しとるという役割を考えたときに、もう写真に任せちゃっていいんじゃないかと(こないだのクレーですごく実感しました)。
絵画は、そうでない現実、機械によって写しとることのできない現実を、ただ指向すればいいんじゃないか(ちょっとリテラルすぎて気になるところではありますが)。

ひとつの瓶を、デジタル/アナログ/油彩のメチエで生成しようとしたとき、異なる結果を生むことは最早自明のことであって、むしろそうであることを引き受けた上で、その違いのなかの共通性や差異といったものを検討していくことのほうが、今は面白いと感じます。
絵とかすごい下手でびっくりしますけど(そしてすごい自己嫌悪になりますけど)、そうして描かれたものは、いまのところあやふやだけど、自律的に再現性を指向しないようになれば、そのときにはじめて写真の横に置けるようになるのかなと。
何故それが油彩であるのかは、問われなければならないですけれどね…。

Re: DP2s

どもです。hayashiです。

いいですよね!DPシリーズ。

リンク先でDP2sのサンプルとか見れますよー。
http://photohito.com/camera/brands/sigma/model/sigma-dp2s/

画質を見る限りでは "コンデジのハイエンド機" って言うのを、ちょっと躊躇われてしまうような気もします。D200なんかでは到底及ばない質感(APS-Cセンサ × 3層なんで当たり前と言えば、当たり前か...)。個人的にはフルサイズ機よりよっぽど DPシリーズ の方が興味あります。

いいなーいいなー、ほしいなー。

DP2s

こんばんは、KKです。
先日はやしくんに聞いた、SIGMA DP2sですが欲しい気持ちが高まってきてしまいました。どうしよう。アキバのヨドバシで7万弱、KAKAKUで5万強、という感じみたいですね。
でもDP2sってスペック的にニッチですよね。一眼並のスペックを持ちながらもコンデジなので手軽だけど、裏を返せばちょっと不安というか。まぁコンデジのハイエンドとして考えたほうがよさそうですね…。うーん。