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2009.07.12 /// 狩人と待ち人 --ロバート・キャパとアンリ・カルティエ=ブレッソン--

またまたひさしぶりのポストになってしまいました…。すみません。HAYASHIくんと斎木さんについてのテキストはちょっと待って下さい。なかなか書く時間が…。すみません。ポメラ買おうかな…。

ちょっと長いですが、こんなの↓書いてみました。


狩人と待ち人 --ロバート・キャパアンリ・カルティエ=ブレッソン--

1, スタイルとモデル

写真によって結実する視線とは、極めて静的(static)なものである。この静的という思考を、固定(fixed)された視線と捉えることもできるだろう。シャッターを切ることによって、そこには瞬きよりもいくらか早い速度で切り取られた「静的な」「固定された」世界が生成される。
こうした比較的平凡な思惟を、極めて明晰な形で提出したのはブレッソンであるといえる。彼の身体と眼は、まさに瞬間的な判断によって画像の内容を決定する。そこで静止され固定するものは、フレームに収められた様々な物体や人物であり、これらが複雑に編み込まれたコンポジション(composition)を作り出す。横断、反射、対称…。それぞれの要素が複雑に共鳴しあうことでこのコンポジションを構成している。そこにはまるでリズムとでも呼べそうなくらい、小気味良いクリアな視線が凍結されている。ブレッソンのこうしたコンポジションを、ひとつの「モデル」(model)である考えることができるだろう。
一方キャパの場合、彼が戦場に赴き、私たちの好奇心や知識欲の延長線上にあるような光景を捉える。苛烈な時代のなかで、彼の行動力と知性が、生け捕られる対象との間でシャッター音という激しい摩擦音を軋ませながら、結晶化させるイメージ…。こうした「写真家」像や撮影行為は、私たちが今なお強く抱く写真家のイメージに呼応する。この写真家のイメージを換言すれば、そこに「狩猟」というモデルが立ち現れる。狩人(写真家)は狩猟に必要な道具(カメラ)を携え、猟場(撮影場所)へ出向く。状況との対話のなかから対象の位置を見極め、瞬間的な判断で獲物(被写体)を撃ち抜く(シャッターを切る)。キャパのスタイルは極めてアグレッシブであり、成果の多くの部分を撮影を行う場や状況から与えられる「オーダー」(order)のリーディング能力に懸けられている。それが画像の内容的な価値を決定するのである。
ブレッソンのそれは、キャパとは対照的である。キャパが狩人なら、ブレッソンは待ち人だ。彼は自らが置かれたあらゆる状況のなかで、「決定的瞬間」足るものを待ち構える。つまり、ブレッソンは「決定的瞬間」と「非決定的瞬間」との峻別をあらかじめ持っているのである。それは画面のコンポジションである。コンポジションが彼のモデルに「嵌った」とき、それが「決定的瞬間」であるといえる。
ブレッソンとキャパが対照的なのは、こうした撮影行為への向かい方であり、それぞれの「モデル」の持ち方である。「モデル」が異なるということはつまり、画像が求める「オーダー」が異なるということでもあり、それは当然ながら「画像の内容」(contents)をも決定的に違えることに繋がる。

2, オーダーとコンテンツ

「モデル」が異なることで「オーダー」が異なり、結果的に「コンテンツ」を左右してしまうとは、どういうことか。引き続きブレッソンとキャパを例にとりながら考えてみたい。
彼らの「モデル」がそれぞれ「狩猟型」「待機型」であることは既に述べた。ではそれぞれにとっての「オーダー」とは何か。このことは、モデルが何故そのようなモデルである「べき」なのかを画定するものである。
キャパのような「狩猟型」の撮影者の場合、彼の手による写真において最も重要なことは、「5W1H」であるといえる。当時の戦争報道とは、今のようにリアルタイムで戦地の状況が動画として映し出されたり、死者や重傷者の数や内訳が、即座に判明したわけではないだろう。大雑把な情報が頼りなくメディアによって報じられる、あるいは噂のような形で、街のコミュニティの間を駆け巡るような、そんなものだったはずだ。それは今よりももっと聞き取り辛く、もっと光のあたらない場所だったのだと思う。
そうしたなかで、キャパが撮影し、視覚化した画像は、極めて雄弁に戦争を語りかけたはずだ。ある国の兵士が、今まさに銃撃される…、そうした戦争という場と状況の切迫したリアリティが彼の写真には充満している。そして、彼の写真にとってそれこそがオーダーとなる。戦争という非日常的な、隔絶されたかのような場所、その意味では未踏の地へ、一つの眼となるべく赴き、その内実を見ること。飛躍を承知で言えば、それは人々の欲望が拡張させた眼でもあったはずだ。つまり、キャパの写真においては、「経験したことのないリアリティ」を写真によって表現すること、このことこそが至上のオーダーとなる。
一方、ブレッソンにおけるオーダーを見てみよう。ブレッソンのそれは、極めて審美的であるといわざるおえない。彼の写真において、内容とはその審美性に貢献するものであり、内容そのものが問題ではない(と私は考える)。彼を取り巻く場と状況が見せる一回きりの幾何学的なコンポジション。その稀少かつ決定的な一瞬を掠めとることこそが、彼の「オーダー」である。それはちょうど、惑星が一直線に並ぶのに似ているかもしれない。時間と空間、そしてほんの少しの人々の意志と、ブレッソンの眼が作り出す、崇高なコンポジションという神話。それはブレッソンの前にだけ現れる、一瞬の奇跡である。そうした「世界と人々が織りなす一瞬の幾何学的な偶然」をブレッソンは産み落とし続けた。
ここまでキャパとブレッソンを並走させて眺めてきたが、興味深いのは、コンテンツとして考えられる部分がブレッソンには「ない」ことである。いや、これは誤解を招くかもしれない。詳細を見てみよう。キャパの場合、画像によって生成されるのはあくまでイメージを経由したリアリティであるわけだが、ブレッソンの場合、イメージそのものが内容となっている、とはいえないだろうか。繰り返しになるが、キャパにおいて写真とは器であって、もちろん器の形状、つまり構図的な審美性は重要なものではあるが、それは器に盛りつけられた内容を効果的に見せるために貢献するものであって、それ以上ではない。しかしブレッソンは、その器の形状にこそ執心する。盛りつけられるのはせいぜいそれが誰である、いつである、といった「瑣末な」事柄でしかない。このことはキャパの場合とは大きく異なっており(キャパの場合は誰が、いつ、というのは内容を形成する重要な要素となる)、例えばジャコメッティが雨のなかを画面手前に向かってくる有名な写真があるが、この人物がジャコメッティであるということは大変重要なことではある。しかし、この垂直性を強調した(故にジャコメッティである)写真は、コンポジションという点でいえばジャコメッティで「なくとも」よい。言い換えれば、ジャコメッティであるという画像の内容は、むしろコンポジションを補強する要素であって、コンポジション「に」貢献する結果となっているということだ。
私は、キャパよりもむしろブレッソンに共感する。キャパにおける写真とは、やはり眼として何を補足できうるのかという点にあるように思われる。それは社会的な相対性のなかで価値を持ちうるイメージだ。意味を形成し、その意味を伝達する、そういった写真の機能に大きく寄り掛かることによって流通するイメージである。それは写真の持つ大きな力のひとつであり、キャパのその力を如何なく引き出しているといえる。しかし、私はブレッソンにこそ、写真の可能性、その原点を見出してしまうのである。ブレッソンの写真において、極めて中心的な課題とは写真の審美性そのものにあり、それは写真が表現足りうるのかという問いかけへの応答であるように思えてならない。彼が構築したコンポジションにとって、既に述べたように意味内容とは撮られたものには既になく、どう撮ったかにこそあるだろう。ここではモデルがオーダーによってコンテンツを作るという関係が転倒していることに注視しなければならない。ブレッソンにおいて、モデルはオーダーによってコンテンツを経由することで「形成」されるのである。
このとき、写真において歴史的に写真メディアそのものへの言及という視座が開かれる。ブレッソンは意味を前提としない写真を実践した。このことは決して少なくない影響を遠い残響として今の私たちに伝えているはずではないだろうか。